《カブトムシの角》平成二十六年七月一日
副題「仲間内では強いが天敵に狙われる」
4月7日の朝日小学生新聞に「カブトムシの角、大きいのは有利不利?」という一面記事が載っていました。次に内容の概要を紹介します。
『カブトムシのオスにとって、角は大きいのと小さいのとどちらがいい?これはどちらともいえない、難しい問題だということが東京大学の研究で分かりました。けんかに有利な大きい角は、カブトムシの天敵のタヌキやカラスにとって、格好の目印かもしれないのです。
研究者の小島さんによると、虫たちが集まるクヌギやコナラの木の周りには、何者かに食べられたカブトムシの死体が落ちていることがあります。その犯人は、主にタヌキだそうです。また、そして、その食べられたカブトムシの死体を見ていると、メスよりもオスのほうが圧倒的に多く、オスの角が大きいことに気付きました。
そこで、罠でとらえた約250匹と、食べられた死体約250匹を比べました。両者のオスの角の長さを比べてみると、罠でとらえた方の平均は20.8ミリ、死体の角の平均は23.9ミリ。当初の直感通り、タヌキたちに食べられた死体の方が、角が大きい事が分かりました。
小島さんは、「なぜ食べられた死体の方が、角が大きいのか」について、次のように推測しています。いくつか理由が考えられるが、「単純に大きさが目立つ」という理由が、一番有力だそうです。主な犯人であるタヌキは目が悪く、或る程度の大きさがないと見過ごしてしまうことが、仕掛けたカメラの映像から分かりました。
また、ほかの理由として、角が大きいためにオス同士の争いに勝ち、樹液のそばに長くいる、メスを探してうろうろしている、といった「行動が目立つ」という理由が考えられるそうです。
「角が大きいと、けんかやメスの奪い合いで圧倒的に有利なため、角が小さいカブトムシは生き残るのは難しいはず。でも今回の結果で、小さいのも悪い事ばかりじゃないと分かりました。」と、小島さんは言っています。』
人間の世界でも、オスは身長が大きい事は良いこととされています。端的にいうとモテます。私は身長が低いので、小さい頃から体の大きさには常にコンプレックスを持っています。もう少し身長が高ければ人生が違っていたのではないか、と今でも思います。同じような思いを持つ人は多いと思います。この甲虫の記事を読んで思うのは、なるほど「大きい事は良い事だ」というほど世界は甘くないものだなと言うことです。自分自身を顧みても、自分のコンプレックスを跳ね返すためにいやいやながら勉強をし、仕事をしてきたような気がします。背が高かったら、良かったかどうかは分かりません。逆に、小さいために目立たず、罪を見逃されてきたこともあるのかもしれません。
「仏の智慧は全てを見通し、人間の知恵は物事の一部しか見ていない」、と経典は言います。今回も大きな角を持つ甲虫の苦労も知らずにいた自分の不明に気付かされました。大きいがゆえに狸に食べられた甲虫に、大変申し訳ない事をしました。人間も甲虫も、見掛け上の善し悪しだけでは分からない苦労があるものだ、と考えさせられました。*甲虫=カブトムシ
*日付は、文章を作成した日付となっています。
*その後の私のコメントが付いているものもあります。
《怒る》平成七年十二月一日
先日お寺関係のある集まりで、あるお坊さんが次のような話をしていました。
『ある日、お寺に門徒さんのおばあさんが怒って来たんですよ。そしてこんなことを言っていました。
「うちの嫁は私が出かけるとき、いってらっしゃいと言わなかったんですよ。うちの子はちゃんといってらっしゃいと言ったのに。全くなんて嫁かしら。」
それから火が点いたように次から次へともうお嫁さんの文句が飛び出してくる、飛び出してくる。そして暫くしてひとしきり文句をいい終えると、このおばあさんは帰られたそうです。
ところが、ホッと一息ついていると、このおばあさんから電話がかかってきました。さっきあれだけ充分話したのに、まだ文句が言い足りなかったかと思って電話に出てみると、
「さっき言った事はなかったことにして下さい。」
と言われるのです。驚いて、
「えっ、どうしてですか。さっきあんなに怒っていられたのに。」
と聞くと、
「今帰ってきたら嫁がニコニコして、お帰りなさい、と言って迎えに出てくれたんです。それで何かさっき言った事が嫁に対して悪いような気がしてきたので。」』
というお話です。
何だか面白い話ですね。お嫁さんが知らない間に勝手に怒って、そして勝手に反省して。
皆さんにもこんなことはありませんか。私は何か腹の虫の居所が悪い時に似たようなことがあります。自分で勝手に怒って、暫くしてみると、自分でもなんであんなに怒ったのか分からなくなる時があります。時には、自分の都合や気分だけで相手を傷つけてしまっているような気がします。皆さんはどうでしょう。心当たりはありませんか。
*私は息子とよく喧嘩します。原因は他愛無いことなのです。ただ、お互い謝る事も出来ず、意地の張り合いで喧嘩してしまいます。私が大人なので、大人気ないのは私なのですが、感情というのはいくつになっても制御不能です。仕事では多少は我慢できるようになったのですが、基本的には融通の利かない性格なので、仕事上の付き合いのある人は随分手を焼いていると思います。申し訳ありません。「三つ子の魂百まで」と言いますが、私の大人気なさは死ぬまで治りそうもありません。
*日付は、文章を作成した日付となっています。
*その後の私のコメントが付いているものもあります。
《マラソン》平成七年十一月一日
先日確か、NHKだと思ったのですが、あるテレビ番組で女子マラソンの有森選手を特集していました。その中で、彼女は「オリンピックでメダルを獲得してしばらく、走る意欲がなくなってしまっていた」、ということを語っていました。いったい何故かというと、彼女にとってマラソンを走る最大の目標はオリンピックでメダルを取ることで、それを達成してしまった今、走る理由がなくなってしまったからだというのです。周囲の期待もあってその後も嫌々ながら走っていても、目標なく走っていることが大変つらかったそうです。
そんな時、足の怪我をして手術をしなければならなくなり、彼女はある病院に入院しました。そしてそこで、歩くために大変苦しいリハビリに励む多くの人に触れる機会を持ったそうです。そのとき彼女は、「歩けない人たちがこんなに歩こうと努力しているのに、歩くどころか走ることができる私が何をフワフワしているのだろう。」と思ったそうです。
その後見事に復活し、札幌マラソンで優勝した後のインタビューで、「レースは苦しくなかったですか。」と問われて、「走ることは苦しくありません。目標を見つけられずにいる方が辛いです。走っていて苦しい時はむしろ、私はまだ生きているんだと感じられて嬉しいです。」というようなことを、答えていました。
私たちはどうでしょう。普段生きていて、しっかりと目標を持っているのでしょうか。いつもふらふらしていませんか。私など、マラソンでいえばいつもコースを間違えてばかり、のような気がします。私たちは、人生という長い長いマラソンを走っています。それこそ長い長い道のりです。ただ何となく生きているだけならば、有森選手が走る時に感じたように、生きることがただ辛いことになってしまわないでしょうか。けれど、何かしっかりしたものを見つけられたとき、彼女のように「苦しい事さえも生きる喜びに変わっていく」、そんな生き方ができるような気がします。
*最近、私も走る事に目覚めました。十キロ走ると一時間くらいかかります。その間いろいろなことを考えるのですが、目標がないのは辛いものです。私の今の目標は、ハーフマラソンでとりあえず2時間を切る事。次に、来年の横浜マラソンで4時間を切ることです。具体的な目標は走るエネルギーになるし、走りだすきっかけになります。実は長距離走は走りだした最初は苦しいものです。しかし、無理をせずに走る分には、ある程度走るとその苦しさが心地よさに変わってきます。ただ、その初めの苦しさを知りながら、長距離を走りだすきっかけが必要なだけです。一歩を踏み出すきっかけが大切なような気がします。
*前のコメントは40過ぎの時に書いたものです。当時の目標のうちハーフマラソンの方はすぐに達成できたのですが、マラソンの方は・・・。
*日付は、文章を作成した日付となっています。
*その後の私のコメントが付いているものもあります。
花祭り
「花祭り」は、お釈迦様の誕生をお祝いする行事です。お寺が関わっている保育園、幼稚園では、必ず行われています。本当は、4月8日がお釈迦様の誕生日と言われているのですが、4月8日に行事を行うことは不可能です。保育園に通ったことがある方なら説明は要らないと思います。ですから、4月の終わりから5月の初めの間で、適当な日に行っています。
お釈迦様は、生まれてすぐに7歩あるき、右手を上に左手を下にして、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」とおっしゃったと言われています。「天上天下唯我独尊」の意味は、「この世の中に私という人間は私しかいない、だから私は尊い」というものです。「私は偉い」、「私は優れている」という比較の意味ではなく、「私の存在そのものが尊い」という絶対的な意味です。
そして、花祭りには甘茶を飲みます。飲んだことがある方はよくご存知でしょうが、甘茶は不思議な味がします。お茶の葉を煮出しただけなのですが、とても甘い味がします。まったく砂糖は入っていないにも関わらず。ある意味で、究極のダイエット甘味飲料です。
その甘茶をお釈迦様にかけ、手を合わせてお祝いするのが「花祭り」という行事です。近隣のお寺や、お付き合いのある寺でも行っているところがあるのではないでしょうか。是非、参加してみてはいかがでしょうか?
保育園では、お釈迦様の描かれた冠をつけて参加します。その姿はとてもかわいいです。
圓照寺略史 上
「社会福祉法人 徳風会」の「徳風」という字は、大正十四年に「圓照寺」境内に開園した「徳風保育園」からとったものです。では、その「圓照寺」とはどんな歴史があるのか、興味のある方は下記をお読みください。
当山の開創は、源頼朝の弟・源義圓(幼名乙若丸)の子、源阿佐美之介みなもとのあさみのすけ(1188~1266)が親鸞しんらん聖人鎌倉ご逗留のみぎり聖人に帰依し弟子となり、聖人より法名ほうみょうを「釈明願しゃくみょうがん」と賜り、鎌倉名越坂に寶満寺ほうまんじ(又は、法満寺ともいう。圓照寺の元の名)を建立したのが、1224年と伝えられています。今から800年ほど前のことであります。
鎌倉市の名越坂下に、今でも「寶満寺畑花見畑」の名が残っています。元亨釋書(虎関釋書著、1323年完成、日本初の仏教通史)巻七の四・円覚寺昭元伝に「釋昭元が鎌倉瑞鹿山円覚寺にいたが1311年に病気のため円覚寺を辞退して寶満寺に寓居した」とあります。
その後、1572年前後には、三崎の宝満町ほうまんちょう(現在の三浦市三崎一丁目から二丁目あたり)に移転していたようです。三崎城主・北条氏規ほうじょううじのり(群馬県館林城、伊豆韮山城も領す。小田原城主北条氏政の弟)の、宝満寺宛ての1572年付けの朱印(眞實印)状が当山にもあります。これは三浦市現存最古の文書であります。
1614年には、徳川家康の水軍大阪冬の陣進発の船手ふなて勢揃いを宝満寺境内にて行いました。1620年、戦勝祝いとして三崎奉行・向井兵庫頭むかいひょうごのかみより現在地を寄進(寄進状現存)されここに移転しました。
このころ、第十一世釋乗善のとき、寶満寺(宝満寺)を圓照寺えんしょうじに改めました。又、本山より許可を受け院号を寶満院と称すようになりました。
*原文は現住職・釈英照によるものです。
「圓照寺略史・下」に続く
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